mouratta’s blog

うっかり半世紀生きてきて、自分がギフテッドと やっと気づいた私。

子供のころの記憶から、本について。

何でこのブログを始めたか…最初の記事は、こちら

 

ばらばらと、「写真をばら撒いた様に」記憶のあれこれ。

 

とにかく本を読む子供でした。 

やんちゃで、男の子と野山を駆けずり回るの大好きでしたが

同じくらい本も大好きでした。

 

お気に入りは、

ポプラ社シャーロック・ホームズジュブナイル編集されたシリーズ。

その類のアルセーヌ・ルパン。 その他図鑑的なものとか。

これ、今思い立ってwiki調べたら面白いねぇ!

ルパンって、翻訳、南洋一郎だったんだ!!! びっくり!!!

半端にSFのようなものもあった。 「五次元世界のナントカ」とか

図鑑もいっぱいあって読み放題w

学校の図書室はもう、私のためにあるようなw 

今でもどこに何の本があったか覚えてる。

家では百科事典もよく読んでいました。

 

比較する相手がいなかったので長いことわからなかったのですが

本を読むスピードが異常なほど早いということに、

20代後半でやっと気づきました。

 

独身時代、休みの日なら日がな一日読書で、3~4冊読む、

という話を誰も本気にしてくれないという…え?なんで?

中学校の時なんて、夏休みや冬休み、20~30冊は読んだよね?

相手は「何言ってんの?」って感じです。

え?マンガ?なんて反応で、いやいやマンガは数に入れないでしょって

こっちも意味わからなかった。

大して分厚くもない本、何日もかけて読むっていうの聞いたときは

本当にびっくりした。

(あとから注釈: 私は北海道育ちですので、道外のかたにはわかりにくいと

思いますが、夏休みは25日間で、8月20日前後に始業式。 東北の一部もそう。

そのかわり冬休みが25日間と、ほかの地域よりもずっと長めです)

 

今でも極端に厚くない文庫本なら、面白ければ3~4時間で読めます。

それはいわゆる速読の技術ではなく、普通に読んでいるのですが。

家を出て、駅の本屋で「容疑者Xの献身」買って羽田空港へ。

新千歳に着いたらもう読み終わってる。 

移動時間全て読めるわけでもないので、実質3時間半…くらいかな。

最近は「目が遠く」なって、さすがにスピード落ちてきましたが。

 

基本、「おはなし」よりもドキュメンタリーっぽいほうが好き。

よくある「恋愛もの」とか全く食指が動かない。

エッセイやドキュメンタリー、「小説」はミステリーかSF、

他にはファンタジーも読むけれど、これはなぜかほぼ海外物のみ。

それ以外の「小説家」で読めるのは本当に限られた人だけ。

大人気作家でも、つまらなくてまったく「読めない」人が何人もいる。

(その作家がつまらないんじゃないですよw 私の問題です。)

 私の本棚の多くを占めているのは、昔から「ブルーバックス

 

今でも思い出すのは、血液凝固関係のことについて書かれた新書…

カッパブックス」だったと思うけど、さすがに確たる記憶ではない。

それを読んだのは小学校高学年だった。

物置に置いてあったのを見つけて、ものすごーく面白くて一気読み。

この本で、カナダで「スィートクローバー」を食べていた牛が病死したとか

「たつみ因子」と呼ばれた血液凝固因子の研究についてとか

当時のことなのでまだまだ医学的には血液凝固にしても研究黎明期、

でもその「研究する」「解明していく」というのが本当に楽しかった。

 

 だがこの本の著者に子供心にツッコんだのは、「たつみ因子」の件

 元々は毎月の出血が止まらず、治療が必要なお嬢さんを診察治療し、

 この患者には血液凝固因子が欠けているのではないかということで

 研究を進めていきました・・・ということを書いてるわけですが、

 『この患者についてはうら若い未婚女性でもあり、今後結婚などに

  差支えがあってはならないと思い、仮名でTとする。』的な記述。

 それで『たつみ因子』・・・って! たつみちゃんかいーーー!!!

 それって仮名の意味あるの? それこそ「T因子」じゃダメだったの?

 失礼ながら・・・(ーー;) もしかして学者バカって、こゆこと?とか思った。

  

小学生が読んで理解できるのか?と言われそうだけれども

私にはやや年嵩の兄がいて、6年生で既に兄の高校の教科書の

「地学」や「生物」を普通に読んでいました。 

そりゃ小学校の授業つまらんわ。

そこらがまさにギフテッドたるところだと思う。

 

スィートクローバーについては、

ず~っと白詰草か赤詰草みたいなもんだろうと単純に思っていたら

今年の夏、似ても似つかない「シナガワハギ」がそれだと分かって仰天w

これ、夏になると分離帯なんかにわっさわさと育っている雑草なんです。

子供のころ見覚えがない草・・・と思って調べたら数十年ぶりにつながった。

こういうことが、本当に、本当に楽しい。

 

 でも、この「楽しさ」を理解してくれる人って、まずいない。

子供の頃からずっとそう。

「物知り博士」というあだ名を頂戴するけれど、孤独。

多くの場合、誰とも共有できないから。

大人と話をしても、大人は「すごいねぇ~(笑)」と流すだけ。

大人の専門家と対話して学べるレベルに達しているとは考えもしない。

 

 私にとって「知識」っていうのは、

スポイトに入れた水を、ガラステーブルの天板に一滴一滴

あちこちランダムな位置に滴を落としていくようなもの。

最初は単独の水玉がぽつんと、時にはそこから小さな水玉がどこかに撥ねる。

ぽとり。 ぽとり。 落とし続ける。

だんだん混んでいき、間隔を狭めて、

それぞれに何の関係もなかった水玉同士が

ある時一気につながって大きな「湖」が出現する。

 

何の繋がりもなかったものが、新たな鍵を手に入れた瞬間に

一気に関連付けられて、まったく知らなかった地平が広がる。

その時の幸福感、高揚感、興奮、面白さ、楽しさ、充足感。

エウレカ!」と叫び、素っ裸で街なか突っ走ったギリシア

おっさんの気持ちは実によくわかる(私はやりませんけどw)。

それを一度味わったら、次も、また次もと渇望するようになる。

その「水玉」を与えてくれる本を、知識を。

 

 

そういう私の最大の幸運は、田舎育ちだったこと。

家から子供の足でも10分かからず山に入っていける。

もちろん原生林ではなく、一度伐採しカラマツなどを植えた山。

ダンプが通る道もあった。 なので子供でも簡単に分け入れたのです。

様々な植物や虫、鳥、時にはキツネ、ウサギ、その足跡の見分け。

本だけではわからない、現物の香りや手触り。

山の崩れた崖からは、貝や葉や種子の化石がいくらでも見つかった。

自然の、半自然の中にいて、その無限の情報を取り込んでいく。

 

今はそういう場所は、ほとんどが立ち入り禁止になっている。

子供だけでなど、まず行かせてもらえない。

 

キレイに整備され、草が刈られ、虫よけをスプレーして

真新しいボードウォークの上をジムに通うようなスニーカーで歩く。

どれがウルシなのか分からない。

そのキレイな花はトリカブト、死にかねないほどの毒だとも知らない。

触っただけでも危険なキノコもある。

北海道ではキツネからエキノコックス感染のリスクがある。

マムシは日本の広範囲に生息している。

ダニに刺された時の対応方法、

後に感染症の症状が出た時のため、その詳細を記録に残すなんて考えない。

 

もし、私が都会の真ん中に住んで、「自然」は本で触れるのみ、

美瑛や富良野の畑を前にして「すご~い!大自然っ!」なんて

訳の分からないことを本気で口走るような観光客だとしたら、

きっとそんな風だったかもしれない。 

知識だけはあふれんばかりで、何もかもコントロール可能で、

全て管理可能と思い込んだかもしれない。

そうならなかったのは、自然の中に身を置いて育ってこられたから。

 

バーチャルの、本。

リアルの、自然・半自然。

その二つが私に幸福感をもたらしてくれた。

 

元々「ギフテッド」は「幸福感・充足感」を感じにくいとされているけれど。

自分のことを振り返ってもまさにそう。

それは実に「生きにくい」「生きづらい」人生となる要因の一つ。

それがために、生命を、精神と身体の健康をすり減らし、

最悪、失いそうになることも稀ではない。

大げさな…と言われるだろうが、半端ないのだ、

普通の人には何ということもない事柄から受けるダメージが。

 

その私が今日まで生き延びてこられたのも、

重篤な精神的な病に罹患せずに今日まで過ごせてきたのも、

根本には本と自然の両輪があったと思う。

その豊かさが、「自分の世界」を構築できるツールとなった。

 

そういう幸運が、いまだ気づかぬまま苦しんでいる

「ギフテッド」の方の傍らにあるよう…心から願っています。

 

 

私は「ギフテッド」です。

そして2Eと呼ばれるタイプで「算数障害」を抱えています。

 

子供の頃から、自分が「変わり者」「はぐれ者」の自覚はありました。

学校の授業はほとんどが退屈で、

ノートにいたずら書きをするか、窓の外を眺めているか。

私が「いじけずにいられた」のは、

環境と本から「知識」を存分に得ることができたからです。

あだ名は「物知り博士」。

でもその知識レベル、考察できるであろう能力について

誰にもきちんと取り上げてはもらえませんでした。

自分は「異常者」かもしれないという気持ちに

常に苛まれていました。

その状況から逃れるために

環境と本からの知識世界はとても大切なものでした。