mouratta’s blog

うっかり半世紀生きてきて自分がギフテッドとやっと気づいた私。

擬態を強いられている…のだろうか。

何でこのブログを始めたか…最初の記事は、こちら 

   

さて、 

Wikipediaの「ギフテッド」の記述内容をお借りして、私の場合はこんなんでした…というのをぽつりぽつりと書いております。 ちょこちょこと進み、今回はギフテッドの抱えがちな問題について、今週で3回目です。 先週は「孤立」についてでした。 

今週はその続き「低達成」

  

「ギフテッド」についてWikipediaより精神的、社会的な問題についての部分を引用。

 更新 2016年9月19日 (月) 06:12 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 

 

アンダー・アチーブメント(低達成)

ギフテッドの生徒はしばしば、その能力と実際の成績の間に大きな隔たりがある。多くのギフテッドは標準テストなどでは非常に優れた結果を出すのに、学級でのテストでは低得点しか取れないことがある。こうした隔たりは、周囲からの孤立を避け学校友達・同級生に同化しようとするプレッシャー、担当教師の自分との相性、その状況が要求する制度・規則・ノルマの達成、など様々な要因からも容易に引き起こされる。憂うつ、不安、完全主義、怠慢など含めた感情的、精神的要因によっても引き起こされる。

 

また低達成児は、ギフテッドと学習障害が同時に存在するわけがないという誤解のために、学習障害を持つギフテッドが診断漏れで支援教育を受け損なっていることもある。一般的に、全教科の点数が平均以上であっても、点数差が標準偏差σ1程度あれば学習障害と定められる。 ギフテッドの広く、深く、速く学習するという性質上、単純に学習量や難易度を増した習熟度別クラスやスピードを増しただけの飛び級では十分に対応しきれない。低達成児であるギフテッドの子供の能力や興味、幅広い好奇心にもとづいたエンリッチメント・プログラムを受講させることが解決法となる。エンリッチメント・プログラムとは生徒の精神的健康を念頭に置いて、主体的な関心を持って学習できるよう工夫して作り上げられたもので、多方面にわたった幅のある発展的授業や個別指導カリキュラムを指す。

 

 

私自身は「アンダー・アチーブメント:低達成」ということについて意識しなければならない必要は全く感じませんでした。

これは私にとって大変に幸運だったことですが、小学校の時点で、とても成績優秀な同級生が複数いたため、特に出来ないことを装って周囲に同化する必要は無かったためです。 時代的にもよかったのかなぁ。

 

昨日?おととい?だったか、池上彰さんの番組で

「昔と今どっちが良いか?」という比較を、暮らし向きや学校教育などを取り上げてやっていました。 私の時代は詰め込み教育の弊害がはっきりと認識されてきた頃…でしょうか。

 

前々回の色々「問題」はあるのだけれど。で取り上げた岡真史君。

彼は1975年に12歳で自死…自ら命を絶ちました。

「子供が自殺をする」という事実が広く社会的に認識されたその世代は、70年代末期からの「校内暴力」の最盛期の中心世代でありました。 その反省として「詰め込み教育、止めた方が良くね?」という方向に大きく舵を切っていった気がします。

 

あの時代の教育に批判されるべき部分があったことは否定できないと思います。 ただ、では、一切批判されない学校教育方針があるのか、可能なのかといえば、そりゃ無理だろうよ、とも思うわけで。 

 

問題は「個性重視」と言いながら、実はちっとも個性の重視なんかしてないってことなのですよね。 個々の能力、得意不得意には絶対に差があります。 工場生産の大量生産品じゃあるまいし、全く同じなんてありえない。 この子は算数得意、この子は文章得意、この子は工作得意、この子は運動得意、この子は音楽得意… でもその他のことはちょっと…w

それが普通のことだし、それが「個性」ってことの一つの局面。

 私は2Eで、算数数学は全くもって、地べた這う理解度しかありません。中学校の時点で、小学校のカリキュラムで青息吐息だったのです。 その代り、国語や生物については大学入試問題、楽勝で解いてました。 そんな生徒が「中学生はこの内容」って押し付けられたカリキュラムで耐えることしかない授業にうんざりしないわけはない。

そしてその後の、いわゆる「ゆとり」教育。 この教育方針、ギフテッドにとっては本当につらい状況ではと思います。環境にもよるのですが、低達成という行動をとることでしか

周囲からの孤立を避け学校友達・同級生に同化しようとするプレッシャー、担当教師の自分との相性、その状況 …に対応できない場合も多いのではないのでしょうか。

 

  

自分がこの年齢になってみてつくづく感じるのですが、やはり若い時のものごとの吸収度合いってのは本当にすごいものだと思います。 特にギフテッドではなくっても、スマホの使い方の覚え見ればそうじゃない? 驚くほどのスピードですいすいと記憶していきますよね。

 

子供の頃に、ある程度の「詰め込み」は、後々複雑なものを理解するための重要なパーツを入手するのに有効なのでは?と私は考えています。

そして子供の脳の柔軟性は、それに充分堪えられるのではないかと思います。 もちろんそこには細やかな観察が必要で、ディスレクシアなどについてしっかりと対応できなければならないということは、強く思うのですが。

 

もっと勉強したいのに。 

そして分からないことをちゃんと分かるようになりたいのに。

 

習熟度クラスの実施について、どうして批判的な意見が多く、不公平の象徴のように受け止められるのか、私は全く理解できないです。

万一、一番下のクラスになったら立ち直れないから? トラウマになる? 一生引きずるような傷を心に負う? 社会的不適合の烙印を押される?

 でも得意なことが全く一つもないって子供って…本当にいるのだろうか…そして、ずぅぅぅぅぅ~っと全てについて一番下のクラスから上がれない子って本当にいるのだろうか… いわゆる「障害」、発達、学習、知的、識字、算数その他諸々の理解を妨げる何がしかの特質に、ちゃんと対応がされない場合を除いてのことだけれども。

 

同じ教室で「出来る子」「出来ない子」で軋轢を生むよりは、それぞれの得手不得手で「ステップ上がっていこうよ!」っていうほうがお互いに冷静に評価しあえるんじゃないかなぁ…

そして先生だって、教えやすいんじゃないのかなぁ…

もちろん、こんなことがそんな簡単ではないのは分かってます。 でも今のやり方では「異質な者」が排除されがちな方向に向かうのは感覚的に理解できる気がします。

 「ステップを上がる」ことが言祝がれない社会。

それってもしかして既得権益集団が、下剋上状態を嫌って、わざとステップ上がりにくい世の中を作ってるんじゃないよねぇ?とまで勘ぐりそうになってしまうw

 

前述の池上さんの番組で言っていたので、少しホッとしているのだけれど、ほぼ私の頃から始まったあの「マークシート方式」の入試、おいおい記述式に切り替えていく方針が出てきているとのことで。

 私が思う、今の子供や若者たちが非難されがちな「短絡さ」とか「応用の効かない、気の利かなさ」っていうのは、(それこそ「短絡」な言い方ですがw)あのマークシート入試とそれに対応した受験勉強テクニックが最大元凶と思っています。

 あんなやり方で人生の大きな分岐点を通過せざるを得ないってことは、そしてそれに適応する形での勉強をする必要に迫られるってことは、そりゃその前の世代と思考形態が全然変わらないわけないでしょう。

 

誰だって自分でやってみて分かると思うんですが、問題を提示されてそれに回答する際に、あらかじめ4つだろうがそれ以上だろうが選択肢のある場合と、何もなく自分の言葉で一から考えて記述し答えるのと、頭の使い方全然違うじゃない。

私自身はこのことは周りに30年くらい前から言い続けてました。 自分の頭で深くものごと考えなくなる。 絶対良い方向に行かない、と。

同じこと考えていた方がやっぱり居たんだぁ…(T_T) って、感涙。

  

この「記述式に切り替える」ことについて、必ず出てくるのが「採点する教師ら、現場の負担が非常に大変なものだ」ということです。

もちろんそれは分かるし、看過できないことではありますが、それって、子供に「手間かけて、愛情を注いで見守り育ててゆく」というところから真逆ではないのか?という風に感じます。 大人の都合で子供をぶん回してる? という風にしか思えないです。 現場の負担を減らすために考えるのは、そういう方向ではないのでは?

 

例えば特に信頼を置ける秀でた存在と判断した学生たちに、採点および採点の点検について協力してもらうとか。 委託された学生にとっては、その委託されたという事実が就職時などに人物判断の一つの要素として重視されるとか。

ボランティアとかを重視する風潮があるなら、こういうことも立派な社会貢献になるんじゃないかと思うんですけど。 個人情報についてのことは、記名ではなく番号にするとかで、かなり問題を回避できるのではないかと思ったり。

…そんな単純ではないのかなぁ…

 

「ギフテッド」は、知らなかった知識を得て、それをもとに考察し、今まで見えなかった知識の地平を目にすることに大きな喜びを感じます

記憶することはそれほど難儀ではない場合がほとんど、でもその記憶した知識を「試される」大きな機会が「あらかじめ与えられた選択肢から選ぶ」大学入試。

 

そしてそれに対応した勉強法を求められ続ける学生時代。 ギフテッドに限らず、そういう方針の中で育まれる社会性って一体どんな?

それはもしかしたら「あらかじめ選択肢にない存在」を、さらには「あらかじめ与えられていない」「選ぶことのできない」ことを決して許容しない社会を作り上げていくのではなかろうか。

何言ってんの、考えすぎと笑われるような話だろうか。

 

その中に身を置いた「ギフテッド」が、「アンダー・アチーブメント」に陥らずに過ごすことは、とてつもなく難儀なことのように私には思えます。

 

 

私はギフテッドです。

そして2Eと言うタイプで算数障害をかかえています。

 

今回は「アンダー・アチーブメント」について

あれこれと考えを彷徨わせてみました。

私自身はアンダー・アチーブメントに陥らず過ごせましたが

会話の中で(話したところで理解してもらえないだろうな)と

話題を呑み込んでしまうことは今もあります。

 

子供時代にそういう経験をし続けるのは

やはりちょっと辛いというか…

自分の考えは誰にも理解してもらえない…と

なってしまう可能性もあるのではないかと危惧します。

 

「アンダー・アチーブメント」擬態することで、

自分の居場所を作ろうとしなければならないとしたら、

本人にとっても、社会にとっても、

あまりに残念なことではないかと思います。

 

 

 

 

 

 

ちょいと相撲への思いの丈…

 

今日の稀勢の里の優勝、

彼のあの泣き顔見ちゃったら、そりゃ感情性OEのワタクシ、

涙ぐむなんてもんじゃありませんでしたw

でもね、照ノ富士も、メンタルの面でキツかったろうなぁ。

昨日のあの変わり身の勝利は…勝負にゃ勝っても…ですし。

あれでむかえた今日の土俵は、会場全体彼にとって全アウェー状態。

立ち合いは、稀勢の里に比べて目の動きが浮ついて

明らかに心中の安定性が欠けていて、迷いがあった。

そういう点から見れば、ある意味互角だった。

メンタルって、ホントに大きいものだねぇ…。

とはいえ、私の頭の中ではもう一つの考え方、

確かに稀勢の里、凄い!素晴しいことだと思うけど、同時に…

「人間気合で何でもできる!」みたいなことが罷り通るのではないかと…

ちょっと…う~む、と思う部分はある。

 

稀勢の里に言われるなら「おっしゃる通りです<(_ _)>」と平伏するけど

彼を「引き合いに出すだけ」のお偉い立場のどなたかさんとかに言われても。

 

あぁ…もうさ、その賜杯だけでいいって、それ以上重いモノ持たすなってば!

一刻も早くスポーツ医学の名医のもとに連れてってあげてよぉぉぉぉ!

絶対、絶対、とんでもなく痛いんだってば、あの左腕、左肩!(T_T)

 

 

でもとにかく、おめでとう!

 

 

そして照ノ富士も、クサらないで、次頑張って。

立ち合い変わった気持ちは分からないではないけどさ、

相撲ってね、世界でも稀に見るフェア精神尊ぶ格闘技なのよ。

だから、ああいう勝ちは勝っても喜ばれないの。 怒られるの。

次行こう、次! アナタもお怪我大事にしてね。