今日の書き込みは「ギフテッドについてではありません。
今日は72年前、広島に原爆が投下された日。
私はこのブログのヘッダーにもちょいと書いてあるように、うっかりちゃっかり半世紀生息してきた50歳代なのだけれど、私は親にとって「遅い子供」だったので、同級生、同年代の親よりもかなり年齢の高い親だった。
私の父は大正生まれ。
太平洋戦争で徴兵され、従軍経験がある。
同年代、あるいはそれより若くて「親に従軍経験がある」という人物は本当にごく少数で、今まで数えるほどしか出会っていない。
子供の頃、若いころはそんな影響などまるっきり感じなかったが、30代になったあたりから、このことはどうも根本的なところに一言では言い表せない複雑で大きな影響があるのだなと、特にこの時期には思うことが増えてきた。
北海道で生まれ育ったこともあると思う。
今の時代、こんなことはポカーンとされるだろうけれど、私が子供の頃…中学生になる頃までは、もしかしたらある日突然ソ連が攻めてくるかもしれない…という緊張感が、社会の中にずっとあった。
それは別に声高に叫ばれるわけではないが、例えば飛行機に乗った時のエンジン音のように、意識しなければ気にならないが常に聞こえてはいる、というような感じで。
最初は、たまたまだったと思う。
夏休み、買い物に出た時に神社の前を通りかかって何を思うでもなく何となく、お参りして手を合わせた。
夜になって帰宅してから、ニュースで「原爆の日」だったと気づいた。
特に几帳面なわけでもないのに「広島だけってのも…」と、9日には意識してお参りに。 そして「だったら終戦の日も…」と15日に近場の神社さんに。
元々がぐうたらな性格なので、3回お参りしたってのはその時だけ。 でもその後も、8月の6日、9日、15日のいずれかには必ず神社仏閣にお参りすることにしている。
私の父は、生前、戦争体験の話をすることはほぼ無かった。 稀に話すそれは、笑い話のようだったり、イイ話だったり、よく戦争映画で兵士の人物内面表現のために描かれるエピソードのような、戦闘状態や殺戮や悲惨とは無縁のことばかりだった。
「重い」話は、本当に晩年になって、ぽつり、と語ったくらい。 その「重い話」は、私が家族で、娘だからこそ重いと分かる。 父にとってはとてつもなく重いものなのだろうと感じられるわけで、他の人にはおそらく「何が重いのか分からない」だろう。
父が語った中で、忘れてはならないと思う言葉がふたつ。
一つは
「戦争と言うものは、勝っている間は面白いんだ」
そうしてもう一つは、
「ある日突然、真珠湾攻撃をもって戦争が始まったわけではない。 今思えば、その前、何年も何年も前から、かすかな、小さなことから漁の網を絞られるように、世の中が戦争に向かって追い込まれて行った。」
「教育や、政治や、経済や、そして言論が、報道が、法律が、軍が。 気が付いたときにはもう、その道にまっしぐらに進むしか選択肢はなくなっていたんだ。」
「個人の力ではもう、そのうねりには何もできない。」
ふと気が付くと、この国ではいつの間にか「あの戦争」
いや「戦争」それ自体をどんなものだったのか直接に知っている人々が少数派になって、いずれその全ての方がこの世から去ってしまわれるのだろう。
戦争を知らない子供たちが、戦争を知らない高齢者になり、戦争を知っている大人たちは、物言わぬ墓標となり…
「戦後」はその時終わるのだろうか。
その後にやってくるのは、もしかして
「戦前」ではあるまいな。
この数年、その怖さがどんどん増してくる。
…沐浴して、お参りに出かけよう…