mouratta’s blog

うっかり半世紀生きてきて、自分がギフテッドと やっと気づいた私。

「理解」どころか「認識」されてない場合

何でこのブログを始めたか…最初の記事は、こちら 

 

9月になりましたね。 札幌はもう秋です。

日中でも、窓開けて、風が通ると半袖ではもう…ちと寒い 。

今日はおでんっ~♪

 

さて、このブログを始めて先週で1年経過しました

 

根本的にぐうたらな自分、持つんかいな…(^_^;)と、

かなり不安ではありましたが、途中休んだりしながらでも

そろりと続けていきたいと思ってます。

 

 

Wikipediaの「ギフテッド」についての項目がきっかけで

自分自身の長年にわたる違和感の正体はこれだったのか…と

霧が晴れたような解放感を覚えたことを今も忘れません。

そして、そこにたどり着くまでの数十年の道のりに、

様々思うことあり、です。

 

そもそも「ギフテッド」の定義も確定してないし、ってことは

診断だってどこまで…正しいのか、ということになるわけで。

それでも社会の中にそういう認識を普通に持っている人物が

どれほどいるのかで生き辛さは随分変わってくると思います。

 

「ギフテッド」の概念自体は1960年代には既に欧米では認識され

従来の教育制度とは違った対応が必要だ、とされていたにもかかわらず

日本に於いてはまだまだ認知度は低いと思わざるを得ません。

 

もちろん「欧米では既に充分・万全な対応が取られているのだ!」

・・・てな、お外にはバラ色の世界がある!なんて妄信はしませんけどねw

お花畑は遠目に観てる時が一番綺麗。 

踏み込んでみれば、花はまばら。

  

 

で。 Wikipedia の「ギフテッド」項目についてのかみ砕き、

だいぶ終盤となってまいりました。

  

この1年、項目一つ一つに「私はどうなのか?」という視点で

書き連ねてきたのですが、思ったよりもずっと、

自分の問題点を落ち着いて思い返すことが出来ました。

私の場合は文字に起こすのが考えをまとめるのに有効なようです。

 

この1年お世話になったWikipediaについてですが、 

それは常に多くの人々によって編集され、加筆・修正・削除等により

私が参照した時点と現在では記述内容に違いがあったりします。

(引用する場合、記事の最終更新日時を合せて引用していますのでご参照ください)

「どちらが正しい」ではなく、元々Wikipediaの信憑性・信頼性について

絶対的なものではない、ということをご理解くださいませ<(_ _)>

 

 

さて、 

Wikipediaの「ギフテッド」の記述内容をお借りして

私の場合はこんなんでした…というのをぽつりぽつりと書いております。

今回で8回目です。 前回は「ギフテッドと他のタイプとの違い」

天才やサバントについてのこと、定義のゆらぎについてでした。 

今週はその続き、「一般社会の理解」

「ギフテッド」についてWikipediaより「精神的・社会的な問題」の項目からの引用。

記事の最終更新 2017年8月26日 (土) 12:50 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 

 

 

ギフテッドと他のタイプとの違い

 

一般社会の理解

特殊教育の中でもギフテッドは高知能、高能力ゆえに後回しにされがちである。知能指数が平均より下方にある子供ばかりでなく、上方にある子供にも支援を受ける権利はある。ギフテッドの子供の中にはギフテッドであるがゆえの様々な問題を抱えており、支援を必要としているケースがある。

通常ギフテッド教育を受けるには知能指数や学力試験で選抜され、子供がギフテッド・プログラムに選ばれて嫌がる親はいない。実際ギフテッドを鼻にかける親も存在する。しかしギフテッドの子供にとって最適の育児・教育法を暗中模索する親は、時にはギフテッドではなく通常クラスに入れたり、状況が許せば私立ホームスクーリングを選ぶこともある。子供の才能を見逃さず最大限に伸ばす方法を考え、常に旺盛で衝動的な知的好奇心を満たす学習課題を与え、激しい感情の波のコントロールを教え、得意分野だけでなくバランスのとれた教養をめざし、高慢にならず、被害妄想を膨らませず、社会で孤立しないよう育てようとする親もいる。一般的にギフテッドの子供についての悩みは、他人には自慢話や贅沢な文句にしか聞こえないことが多く、親自身が孤立することもあるが、むしろ例外であることもある。

 

…後回しどころか存在認識すらしてもらえてないってばw

 

特殊教育の中でもギフテッドは高知能、高能力ゆえに後回しにされがちである。知能指数が平均より下方にある子供ばかりでなく、上方にある子供にも支援を受ける権利はある。ギフテッドの子供の中にはギフテッドであるがゆえの様々な問題を抱えており、支援を必要としているケースがある。

 

今の教育現場がどういう状況なのか私にはよく分からないです。

私の子供時代はどうだったかといえば、 特殊教育(特殊学級)は

明確に知的障害とされる子供のため、という感じでした。

この「明確に」ってのがクセモノで…

IQテストが行われていましたから、学校側はその高低を把握していたわけで。

で、いわゆるボーダーというか、軽度の場合は親は往々にして

普通学級での教育を強く望む場合が多かったです。

 

結果として授業についていけないとか、

精神年齢的にも同学年の子たちに比べて遅延が見られるとか

そういう子供に対して、当時はほとんどの教師の対応は酷いものでした。

暴力的であったり、人格否定的であったり。

教師だけではなく、親、周囲の大人や子供からもそう扱われ。

だって、「頑張れば、必ずできる!」って考え方ですから。

デキナイノハオマエガチャントシテナイカラダ! です。

 

どんなに頑張っても、出来ないという「障害」があるなんて

当時は誰も思い付きすらしなかったんじゃないかな。

 

「支援を受ける権利はある」

今ホントに、こういう認識が持たれているんでしょうか。

そこが確立してないと、「後回し」も何もあったもんじゃない。 

 

ギフテッドの子供の中にはギフテッドであるがゆえの様々な問題を抱えており、支援を必要としているケースがある。

 

様々な問題、ありました。 抱えてました。 

支援していただけるなら助かるっていうこと沢山ありそうです。

でもこれがまた、「勉強」についてだけってわけでもなく。

例えば感情のコントロールなどのメンタル面の問題の場合、

現在のシステムで教員になった方々に、どこまで対応できるのかは

すごく不安、っつーか、そこまで期待されても困るでしょ、教師。

 

通常ギフテッド教育を受けるには知能指数や学力試験で選抜され、子供がギフテッド・プログラムに選ばれて嫌がる親はいない。実際ギフテッドを鼻にかける親も存在する。

 

これって欧米の話? 

でも最近は日本でもギフテッド教育を謳ってる私立校あるようですね。

HP、いくつか見ました。

私の勝手な印象ですが、「ギフテッド=天才」っぽい捉え方で

数学的才能をどんどん伸ばす、というような感じのものがほとんどでした。

そりゃー…ご自慢のお子様…となるでしょうね。

 

メンタル的な問題を抱えていた場合、それに充分な対応をされるのかは

よく分からなかったです。

私みたいな算数障害抱えたタイプはお呼びでないみたいですw

多分「ギフテッドじゃねーよ、役立たず」判定だと思います(^_^;)

やっぱり数学に秀でないと、実際問題としてあまり利用価値って

ないんだろうなぁ…(-_-;) 脳裏に我が親の顔がちらつくw

 

 

しかしギフテッドの子供にとって最適の育児・教育法を暗中模索する親は、時にはギフテッドではなく通常クラスに入れたり、状況が許せば私立ホームスクーリングを選ぶこともある。子供の才能を見逃さず最大限に伸ばす方法を考え、常に旺盛で衝動的な知的好奇心を満たす学習課題を与え、激しい感情の波のコントロールを教え、得意分野だけでなくバランスのとれた教養をめざし、高慢にならず、被害妄想を膨らませず、社会で孤立しないよう育てようとする親もいる。 

 

こういう親だったらそりゃー…助かったと思うけど。

ウチはそうではなかった。 でもね。

いやさ。 
この歳で(全部)親のせいにするってのもさ。

どやさ?ってw 思うわけでさ。

 

子供の才能を見逃さず最大限に伸ばす方法を考え、常に旺盛で衝動的な知的好奇心を満たす学習課題を与え、激しい感情の波のコントロールを教え、得意分野だけでなくバランスのとれた教養をめざし、高慢にならず、被害妄想を膨らませず、社会で孤立しないよう育てようとする親もいる。 

 

 こういう親…リアルでいたらすっごくビックリしそうw

いやまぁそりゃ、いるんでしょうねぇ。

私の周りにはついぞ見かけないというだけの話で。

でもこういう親って本当に理想の親像と思うし、

特に「ギフテッド」じゃなくったって、こういう親だったらさぁ・・・

・・・幸せだよねぇ・・・(色々思い募ってちょっと涙声w)

 

一般的にギフテッドの子供についての悩みは、他人には自慢話や贅沢な文句にしか聞こえないことが多く、親自身が孤立することもあるが、むしろ例外であることもある。

 

そうだよねぇ…絶対分かってもらえないと思います。

ただまぁ、親が言ってる分には「親ばか」って言葉があるわけで。

当事者本人が悩みを打ち明けるって、なかなかキビシイ。

 

私の場合は大体の場合

「いいじゃん、成績良いんだもん。 何で数学やらないの? 

 出来るでしょアタマイイんだからさ。 

 あたしなんかさ~、ぜんぜん勉強できないもん。( ̄▽ ̄) 」

てな感じで言われることが多かったし、人によってはハッキリと

「やれば出来るくせして、出来ないふりって、ムカつく!」とか。

こんな風に言われるうちに、だんだん話さなくなっていきました。

当時は学習障害なんてものがあるなんて、全く知りませんでした。 

自分の怠惰さが問題と思っていたわけです。

 

ところでこの、

「親自身が孤立することもあるが、むしろ例外であることもある。」って。

この文章の意味合いが全くわからないんですけど?

この「むしろ例外」って、何が例外なんだろ。

親自身が孤立することもあるってことが?

Wikipediaって、ときどきこういうすごく分かりにくい言い回しがあって

意味が拾いきれないことあるのよね。

 

 

 

 

私はギフテッドです。

そして2Eと言うタイプで「算数障害」を抱えています。

 

Wikipedeaの「ギフテッド」項目を目にしたことをきっかけに

自分がギフテッドであると認識しました。

書かれていることが全て絶対的に正しい…わけではない

…ということはきちんと踏まえつつ

その内容について、それぞれに自分はどうであったかを

このところ何週かで書き記しています。

 

今週は「一般社会の理解」について。

元のWikiの文章自体は決して長いわけではないけれど、

思うことは様々です。 ずいぶん長くなりました。

「支援を受ける権利はある」 

実際、そうであってほしいです。