光さす窓はある。 陽に照らされた広場はある。 誰かがきっとそこにいる。
昨日から、いきなりアクセス解析数値がけた違いにびょんと上がって、ほぇ?何ごとざんしょ?と思ったら、NHKのクローズアップ現代+で、ギフテッドの特集をやってました。
私は「ギフテッド」を主題に据えてのTV番組、初めて観ました。 他でもやっていたのかもしれませんが、番組製作者が「ギフテッド」とタイトルにはっきりと明示した番組は、私の記憶ではこれだけです。
何がありがたかったかって、「発達障害」と同一視していない作り方だったことです。
私個人はギフテッドと発達障害に「重なり合う部分」(よく見かける輪っかが一部重なった色や光の三原色の図的な)はあると思っています。 ですが、「同一」や「イコール」では決してない、とも思っています。
思ってはいるのですが…このブログを始めて以来、よく目にしたのですが
ギフテッド=(イコール)発達障害(あるいは自閉症スペクトラム)との考えを強く持たれていて、TVで発達障害の特集をすると、その番組に出演した方々を「ギフテッド」であると決めつけ、「発達障害といいながら、出演してるのはギフテッドばかり。」という発言が多かったのです。
※2019/08/30追記:
ギフテッド=(イコール)発達障害、という書き方は、どうもピンと来ないというか、正確ではないと迷っていたのですが上手い表現ができずにいました。 この意味合いはよくある誤解の一つですが、「発達障害がある場合、別の分野で大変に秀でた部分を必ず(←これが問題!)持っているものだ」 という考え方のことです。 そのため、自分にはそんな秀でた部分は無いと感じている方が本質と離れすぎている、あるいは自分はそうではないのにと辛い思いをなさる場合が多くあるのではということとご理解いただけると有難いです。
「発達障害はそんなんじゃない、もっとツラいんだ。」
「ギフテッドってなんだよ、そんなに自分を(あるいは親・子供・配偶者などを)優れた天才って思いたいのかよ。」
「ギフテッドなんていないんだよ、すべての人がギフトを持って生まれてくるんだよ。 だからみんなギフテッドだよ。」
そういう方向に話を持っていく流れがまさに奔流のようで、私はひどく困惑していました。
残念なことですが、こういう発言の根本にあるのが
「ギフテッド?あぁ?つまりお前オレのことバカにしてんのか?」
「お前はオレより上の存在だって言いたいんだな?下に見てんだな?」
「何であんたが・・・ズルい・・・クヤシイ・・・妬ましい・・・」
・・・という本人すら自覚していない思いであることは多いのです。
そしてこういう考え方というのは、自覚するにはあまりにキビしい潜在意識…強烈な劣等感であったり差別感情であったり、非常にネガティブな意識…がベースなので、本人としても正面から向き合えない場合が多く、そうなるともう全く話がかみ合いません。
何故、「ギフテッド」というと、反発されがちなのか。
ものすごい才能があって、人生バラ色確定!と思われてしまうのか。
「ギフト」
その言葉の響きが、何の苦も、当人の努力もなく与えられた幸運であり、要は「ズルい」と受け止める人が一定数いて、本質を知るより先に脊髄反射的に反感を持つのかもしれないとは思います。 一度反感に捉われてしまったら、落ち着いて実際のことを検証しようとはなかなかならない。
その意味では誤解されがちなのはよく分かるのですが、「同一」ではないということをもっときちんと説明しなければ、結局のところ、
「ギフテッドは発達障害とは違う優れた存在」という大きな誤解
…を、払底できないと思います。
なにより「ギフテッド」自体、定義が確定しているわけではなく、個々の特性も全く違っているわけで。
ギフテッドの最も分かりやすい例として、アインシュタインやビル・ゲイツ、大学で扱うような数式をすらすらと解く小学生、そういう存在が表に出がちですが、その一方で、感覚過敏や感情のコントロール、学習障害や他者との関係性などで困難を抱えている場合も相当数存在します。
表に出がちなタイプのギフテッドでも、そういう困難があるのは珍しくないのですが、その部分は全く勘案されず、何のサポートも受けられないでいることは珍しくありません。
基本、理解されにくい。
やはり記憶能力が非常に高かったり、物事の本質を簡単に抽出する能力が高いことが多いので、考え方のプロセスなどが特異的だったりします。
完璧主義であったり、高過ぎるレベルでの知識欲求や道徳意識を持つために周囲と折り合いがつけにくかったり。
その結果として家で、学校で、日々「自分はみんなと違っている」「自分はオカシイ」という思いに苛まれ、絶望的な孤独の中に立ち尽くしています。
しつこいほど言いますが、
「ギフテッド」といっても、個々の特性はそれぞれに全く違っています。
例えば「小学生」という言葉でくくった時に、その「小学生」という存在に共通するのは「小学校に通っている」ということだけです。
名前も顔も性格も性別も体格も住んでいるところも得意なことも好きなことも苦手な食べ物もアレルギーの有無も家庭環境も似合う色も背負ってるランドセルも、鋳型にはめたように全てがピッタリ同一なんてありえない。
その個々の違いをとりあげて「この子は小学生じゃない」って言うだろうか? あの1年生はこの4年生と体格が違う、だから小学生じゃない、と考える人いるだろうか?
ギフテッドってくくりだって、そんなもんだと思うのですけどね。
長いこと、「ギフテッド」についての書き込みをしていませんでした。
一つには、Wikiの記載をかみ砕くやり方がほぼ終了し、自分でもある程度納得できる答えがつかめたことがありました。
ま、一区切りついたし、飽きたのです。
そしてこの後どうすべきかと考えあぐねていました。
自分自身としては安定した答えを得たものの、時折り書き込まれるコメントのなかに、大変な苦しさに苛まれておいでの方々の吐露を拝見するたび、私にできることなどあまりに微力であり、また、あくまで素人としての立場では、アドバイスなども軽率にはすべきではないと考えておりました。 その考えは今も変わってはいません。
私は、あなたではない。 私が救われた言葉は、あなたにとっては凶器になるかもしれない。 その怖さは身が竦む程です。
私はこうだった、でもそれがあなたにとって良いことかどうかは分からない。 そういうしかないのです。
でも、どうか、一つだけ。
あなたは一人じゃありません。
今あなたが、絶望的な、絶対的な孤独の中にいたとしても、
必ず、あなたと同じ気持ちでいる人が、どこかにいます。
状況は、かならず良くなっていきます。
だいたいさ、人間って、もともと孤独。
その前提でどう生きるか。
群れているから孤独じゃないってのは、多分、違う。
それは、ギフテッドであろうとも、そうでなかろうとも、一緒。
はてなで初めて書いた記事は、2016年8月28日でした。
3年前。
まさかクロ現で取り上げられるようになるとは当時は思っていませんでした。 少しずつでも、認識が広がっていくこと願っています。