mouratta’s blog

うっかり半世紀生きてきて、自分がギフテッドと やっと気づいた私。

「ナイフで切ったように夏が終わる。」…本当だ。

 

8月10日って、夏ですよねまだ。 

今日は40℃超えのところもあるのでホントに危険!熱中症予防してください!とニュースでも繰り返し言ってます。

 

えっと…おとといまでそんなだった札幌。 

実感としては7月半ばからずーーーっと30℃超えが延々半端なく続いて。 気象庁の発表ではそこまで長くはないのですが、百葉箱と街の状況は違いますから。

www.sapporotenki.jp

そして8月になると夜になってもぜんぜん気温下がらない感じ、それが1週間以上続くとか、もうね。

www.sapporotenki.jp

 

今日はあったかい飲物欲しいと思うくらい、さむ…いや、その言葉は言ってはイケナイ! まだ夏!真夏っ! あ、お湯わいた。 ちょっと紅茶淹れてきます。 あぁ札幌。 「ナイフで切ったように 夏が終わる。」PARCO1982年CM 長沢岳夫氏のコピー。

 

 

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通りすがりに車内から。 

 

オリンピックについては本当にみんな心配してました。 今夏、湿度は確かに都内に比べれば「やや」低いかもしれない。 でも気温は下手すれば札幌の方が高いくらいで。何十キロも早いペースで歩くとか走るとか、そんなの無茶だよいくらトレーニング積んでもと。 

結果としては実際棄権する選手も多く、中にはトップ集団で走っていながら、途中で倒れ込んでしまったり。 危惧されていた2019年ドーハ世界陸上的な。

熱中症でふらふらになってゴールした様子の選手の様子が報じられましたが、正直頑張ったねぇ…と思う気持ちはありつつ、でもこれを称賛するのはやはりダメだろうとも思っています。 命にかかわることを美談にしちゃダメだと自戒しています。 

 

自分を応援してくれた方たちに、支えて下さった方たちに恩返しを! だから死ぬ気で頑張った…は、確かに感動しがちなフレーズではあるけれど、命を落としかねない頑張りはまわりも止める方向に行かないと。 

誰かの期待に応えるために自分の命を削るのは、やっぱり違う。 

それで命を落とした時に「立派だ」「感動した」「人の鑑だ」「素晴らしい」と口にする人は、大抵その本人と会ったこともない赤の他人。 次のイベントが始まればあっさり忘れ去っていく。 何かの拍子に「あぁ、あったよねーそういうこと、あったあった!」程度に思い出すくらい。 

そんなことのために命を削るのは、もう止めてほしいの、そういう考え方自体。

 

 

今回のオリンピック競技のなかで、私が屈託なく手放しであぁ、いいなぁと思えたのは、突き詰めていくと2つしかなかったかもしれない。 いや、3つか。

 

ひとつはスケートボードの女の子たちがミスをした選手のもとに駆け寄って抱きしめ励まし、そして勝者を讃えともに喜ぶ、勝敗を超えたその関係性。

 

もう一つは男子走り高跳び

mainichi.

 

3つ目はLGBTQをオープンにしているアスリートたちが、性別分けされている競技について、それぞれの自認に応じた競技に参加できていたこと。 

ただこれはまだ色々混乱のある事例がみられて難しさを感じます。 具体的には女性であっても体質的にテストステロン値が高い選手の参加を認めない競技があり、彼女は結局規制のない別の競技にチャレンジすることを選んだけれど、それは本当に「フェア」なのか、ではフェアとは?

 

 

競技を見ながら、要は「組織」が運営を始めると、どんどん本来のところから遠ざかっていくのだなとぼんやりと考えていた。 どこからか、アスリートのためではなく、指導者や組織運営に関わる人間のためのものに変わってゆく。 

アスリートは高い成績を残すためにトレーニングを積む…のとはまた別のところでの負荷がかかり始め、組織の論理に従うことが要求されだす。 最悪の場合アスリートは搾取され、消費されつくして放り出される。

 

50年後は、オリンピックって、無くなってるかも。

なんかそんな終末感が匂うような感覚がありました。

 

そして閉会式、見もせずに寝た。 それでもParisのプロモーション観たかったので、翌日NHK+視聴し、そして「民主主義とは」とつくづく考え込んだ。 

政治とは結局カネの分配と人命の保全で、政治手腕の評価はそこに帰すると思っているのだけれど、Parisのプロモーションはまさに「納税者に申し開きできない余計なカネを使う気はございませんが、予算枠内で我がParisのハイレベルな文化的素養をもらさず表現いたします、ご覧あれ。」という筋の通った気分の良い映像作品。 

エンターテインメントとしてはリオ・オリンピック閉会式の東京の方が評価は高いと感じる。 けれどそれが今回の失望につながってるとなれば結局残念なわけで。

 

札幌は2030年の冬季オリンピックに名乗りを上げる方向で話を進めていて、それが今回の東京の再現となるなら私は賛成できない。 この街でふたたびオリンピックの聖火が灯る…ということは市民として正直ウレシイと思わないでもないが、とんでもない金額のカネが特定の誰かのポケットに吸い込まれていく、そんなイベントなら謹んでお断り申し上げます。

それは教育に、医療に、人々の生活に使うべきもの。 

そもそも「パンとサーカス」なのだ。 

パン無しサーカスのみで誤魔化しつづけられると、もしかして本気で信じてる?