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mouratta’s blog

うっかり半世紀生きてきて、自分がギフテッドとやっと気づいた私。

擬態を強いられている…のだろうか。

なんなんだと思ってたらギフテッドでした

何でこのブログを始めたか…最初の記事は、こちら 

   

さて、 

Wikipediaの「ギフテッド」の記述内容をお借りして

私の場合はこんなんでした…というのをぽつりぽつりと書いております。

ちょこちょこと進み、今回はギフテッドの抱えがちな問題について、

今週で3回目です。 先週は「孤立」についてでした。 

今週はその続き「低達成」

 

 

「ギフテッド」についてWikipediaより精神的、社会的な問題についての部分を引用。

 更新 2016年9月19日 (月) 06:12 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 

 

アンダー・アチーブメント(低達成)

ギフテッドの生徒はしばしば、その能力と実際の成績の間に大きな隔たりがある。多くのギフテッドは標準テストなどでは非常に優れた結果を出すのに、学級でのテストでは低得点しか取れないことがある。こうした隔たりは、周囲からの孤立を避け学校友達・同級生に同化しようとするプレッシャー、担当教師の自分との相性、その状況が要求する制度・規則・ノルマの達成、など様々な要因からも容易に引き起こされる。憂うつ、不安、完全主義、怠慢など含めた感情的、精神的要因によっても引き起こされる。

 

また低達成児は、ギフテッドと学習障害が同時に存在するわけがないという誤解のために、学習障害を持つギフテッドが診断漏れで支援教育を受け損なっていることもある。一般的に、全教科の点数が平均以上であっても、点数差が標準偏差σ1程度あれば学習障害と定められる。 ギフテッドの広く、深く、速く学習するという性質上、単純に学習量や難易度を増した習熟度別クラスやスピードを増しただけの飛び級では十分に対応しきれない。低達成児であるギフテッドの子供の能力や興味、幅広い好奇心にもとづいたエンリッチメント・プログラムを受講させることが解決法となる。エンリッチメント・プログラムとは生徒の精神的健康を念頭に置いて、主体的な関心を持って学習できるよう工夫して作り上げられたもので、多方面にわたった幅のある発展的授業や個別指導カリキュラムを指す。

 

 

私自身は「アンダー・アチーブメント:低達成」ということについて

意識しなければならない必要は全く感じませんでした。

これは私にとって大変に幸運だったことですが、

小学校の時点で、とても成績優秀な同級生が複数いたため、

特に出来ないことを装って周囲に同化する必要は無かったためです。 

時代的にもよかったのかなぁ。

 

昨日?おととい?だったか、池上彰さんの番組で

「昔と今どっちが良いか?」という比較を、

暮らし向きや学校教育などを取り上げてやっていました。

私の時代は詰め込み教育の弊害がはっきりと認識されてきた頃…でしょうか。

 

前々回の 色々「問題」はあるのだけれど。で取り上げた岡真史君。

彼は1975年に12歳で自死…自ら命を絶ちました。

「子供が自殺をする」という事例が広く社会的に認識されたその世代は

70年代末期からの「校内暴力」の最盛期の中心世代でありました。

その反省として「詰め込み教育、止めた方が良くね?」という方向に

大きく舵を切っていった気がします。

 

あの時代の教育に批判されるべき部分があったことは否定できないと思います。

ただ、では、一切批判されない学校教育方針があるのか、可能なのかといえば、

そりゃ無理だろうよ、とも思うわけで。 

 

問題は「個性重視」と言いながら、実はちっとも個性の重視なんかしてない

ってことなのですよね。 個々の能力、得意不得意には絶対に差があります。

工場生産の大量生産品じゃあるまいし、全く同じなんてありえない。

この子は算数得意、この子は文章得意、この子は工作得意、

この子は運動得意、この子は音楽得意… でもその他のことはちょっと…w

それが普通のことだし、それが「個性」ってことの一つの局面。

 

私は2Eで、算数数学は全くもって、地べた這う理解度しかありません。

中学校の時点で、小学校のカリキュラムで青息吐息だったのです。

その代り、国語や生物については大学入試問題、楽勝で解いてました。

そんな生徒が「中学生はこの内容」って押し付けられたカリキュラムで

耐えることしかない授業にうんざりしないわけはない。

  

そしてその後の、いわゆる「ゆとり」教育。

この教育方針、ギフテッドにとっては本当につらい状況ではと思います。

低達成という行動をとることでしか

周囲からの孤立を避け学校友達・同級生に同化しようとするプレッシャー、

担当教師の自分との相性、その状況

…に対応できないのではないのでしょうか。

 

  

自分がこの年齢になってみてつくづく感じるのですが、

やはり若い時のものごとの吸収度合いってのは本当にすごいものだと思います。

特にギフテッドではなくっても、スマホの使い方の覚え見ればそうじゃない?

驚くほどのスピードですいすいと記憶していきますよね。

 

子供の頃に、ある程度の「詰め込み」は、後々複雑なものを理解するための

重要なパーツを入手するのに有効なのでは?と私は考えています。

そして子供の脳の柔軟性は、それに充分堪えられるのではないかと思います。

もちろんそこには細やかな観察が必要で、ディスレクシアなどについて

しっかりと対応できなければならないということは、強く思うのですが。

 

 

もっと勉強したいのに。 

そして分からないことをちゃんと分かるようになりたいのに。

 

習熟度クラスの実施について、どうして批判的な意見が多くて

不公平の象徴のように受け止められるのか、私は全く理解できないです。

 

万一、一番下のクラスになったら立ち直れないから? トラウマになる? 

一生引きずるような傷を心に負う? 社会的不適合の烙印を押される?

 でも得意なことが全く一つもないって子供って…本当にいるのだろうか…

そして、ずぅぅぅぅぅ~っと全てについて一番下のクラスから上がれない子って

本当にいるのだろうか… いわゆる「障害」、発達、学習、知的、識字、算数

その他諸々の理解を妨げる何がしかの特質に、ちゃんと対応がされない場合を

除いてのことだけれども。

 

同じ教室で「出来る子」「出来ない子」で軋轢を生むよりは

それぞれの得手不得手で「ステップ上がっていこうよ!」っていうほうが

お互いに冷静に評価しあえるんじゃないかなぁ…

そして先生だって、教えやすいんじゃないのかなぁ…

もちろん、こんなことがそんな簡単なことではないのは分かってる。

でも今のやり方では「異質な者」は排除されがちな方向に向かうのは

感覚的に理解できる気がします。

 

 「ステップを上がる」ことが言祝がれない社会。

それってもしかして既得権益集団が、下剋上状態を嫌って、わざと

ステップ上がりにくい世の中を作ってるんじゃないよねぇ?とまで

勘ぐりそうになってしまうw

 

前述の池上さんの番組で言っていたので、少しホッとしているのだけれど、

ほぼ私の頃から始まったあの「マークシート方式」の入試、

おいおい記述式に切り替えていく方針が出てきているとのことで。

 

私が思う、今の子供や若者たちが非難されがちな「短絡さ」とか

「応用の効かない、気の利かなさ」っていうのは、

(それこそ「短絡」な言い方ですがw)あのマークシート入試と

それに対応した受験勉強テクニックが最大元凶と思っています。

 

 あんなやり方で人生の大きな分岐点を通過せざるを得ないってことは、

そしてそれに適応する形での勉強をする必要に迫られるってことは、

そりゃその前の世代と思考形態が全然変わらないわけないでしょう。

 

誰だって自分でやってみて分かると思うんですが、

問題を提示されてそれに回答する際に、

あらかじめ4つだろうがそれ以上だろうが選択肢のある場合と、

何もなく、自分の言葉で記述し答えるのと

頭の使い方全然違うじゃない。

 

私自身はこのことは周りに30年くらい前から言い続けてました。

自分の頭で深くものごと考えなくなる。 絶対良い方向に行かない、と。

同じこと考えていた方がやっぱり居たんだぁ…(T_T) って、感涙。

 

 

この「記述式に切り替える」ことについて、必ず出てくるのが

「採点する教師ら、現場の負担が非常に大変なものだ」ということです。

もちろんそれは分かるし、看過できないことではありますが、

それって、子供に「手間かけて、愛情を注いで見守り育ててゆく」

というところから真逆ではないのか?という風に感じます。 

大人の都合で子供をぶん回してる? という風にしか思えないです。

現場の負担を減らすために考えるのは、そういう方向ではないのでは?

 

例えば特に信頼を置ける秀でた存在と判断した学生たちに、

採点および採点の点検について協力してもらうとか。 

委託された学生にとっては、その委託されたという事実が

就職時などに人物判断の一つの要素として重視されるとか。

ボランティアとかを重視する風潮があるなら、こういうことも

立派な社会貢献になるんじゃないかと思うんですけど。

個人情報についてのことは、記名ではなく番号制にするとかで、

かなり問題を回避できるのではないかと思ったり。

…そんな単純ではないのかなぁ…

 

 

「ギフテッド」は、知らなかった知識を得て、それをもとに考察し

今まで見えなかった知識の地平を目にすることに大きな喜びを感じます

記憶することはそれほど難儀ではない場合がほとんど、

でもその記憶した知識を「試される」大きな機会が、

「あらかじめ与えられた選択肢から選ぶ」大学入試。

 

そしてそれに対応した勉強法を求められ続ける学生時代。

ギフテッドに限らず、そういう方針の中で育まれる社会性って

一体どんなのだろう。

それはもしかしたら「あらかじめ選択肢にない存在」を、さらには

「あらかじめ与えられていない」「選ぶことのできない」ことを

決して許容しない社会性を作り上げていくのではなかろうか。

何言ってんの、考えすぎと笑われるような話だろうか。

 

その中に身を置いた「ギフテッド」が

「アンダー・アチーブメント」に陥らずに過ごすことは、

とてつもなく難儀なことのように私には思えます。

 

 

私はギフテッドです。

そして2Eと言うタイプで算数障害をかかえています。

 

今回は「アンダー・アチーブメント」について

あれこれと考えを彷徨わせてみました。

私自身はアンダー・アチーブメントに陥らず過ごせましたが

会話の中で(話したところで理解してもらえないだろうな)と

話題を呑み込んでしまうことは今もあります。

 

子供時代にそういう経験をし続けるのは

やはりちょっと辛いというか…

自分の考えは誰にも理解してもらえない…と

なってしまう可能性もあるのではないかと危惧します。

 

「アンダー・アチーブメント」擬態することで、

自分の居場所を作ろうとしなければならないとしたら、

本人にとっても、社会にとっても、

あまりに残念なことではないかと思います。

 

 

 

 

 

 

ちょいと相撲への思いの丈…

 

今日の稀勢の里の優勝、

彼のあの泣き顔見ちゃったら、そりゃ感情性OEのワタクシ、

涙ぐむなんてもんじゃありませんでしたw

でもね、照ノ富士も、メンタルの面でキツかったろうなぁ。

昨日のあの変わり身の勝利は…勝負にゃ勝っても…ですし。

あれでむかえた今日の土俵は、会場全体彼にとって全アウェー状態。

立ち合いは、稀勢の里に比べて目の動きが浮ついて

明らかに心中の安定性が欠けていて、迷いがあった。

そういう点から見れば、ある意味互角だった。

メンタルって、ホントに大きいものだねぇ…。

とはいえ、私の頭の中ではもう一つの考え方、

確かに稀勢の里、凄い!素晴しいことだと思うけど、同時に…

「人間気合で何でも可能になるものだ」みたいなことが

罷り通るのではないかと…ちょっと…う~む、と思う部分はある。

稀勢の里に言われるなら「おっしゃる通りです<(_ _)>」と平伏するけど

彼を「引き合いに出すだけ」のお偉い立場のどなたかさんとかが。

あぁ…もうさ、その賜杯だけでいいって、それ以上重いモノ持たすなってば!

一刻も早くスポーツ医学の名医のもとに連れてってあげてよぉぉぉぉ!

絶対、絶対、とんでもなく痛いんだってば、あの左腕、左肩!(T_T)

 

 

でもとにかく、おめでとう!

 

 

そして照ノ富士も、クサらないで、次頑張って。

変わり身した気持ちは分からないではないけどさ、

相撲ってね、世界でも稀に見るほどにフェア尊ぶ格闘技なのよ。

だから、ああいう勝ちは勝っても喜ばれないの。 怒られるの。

次行こう、次! アナタもお怪我大事にしてね。

孤高を目指してなんかない…んだけどね^^;

なんなんだと思ってたらギフテッドでした

何でこのブログを始めたか…最初の記事は、こちら 

 

 あ~・・・残念・・・

毎週日曜日に更新…するのを心がけたいと思っていたのですが

先週はついにDownしてしまって果たせず…(´・ω・`)ショボーン…

季節の変わり目への対応力があまり高くなくて、体調崩しがちなので

いつもはそれなりに気をつけているのですが、今回はちょっと下手を打って

しまったようで、う~む、クヤシイなっ!(-"-) 精進いたしますw

 

さて、 

Wikipediaの「ギフテッド」の記述内容をお借りして

私の場合はこんなんでした…というのをぽつりぽつりと書いております。

ちょこちょこと進み、今回はギフテッドの抱えがちな問題について、

今週で2回目です。 

 

 

「ギフテッド」についてWikipediaより精神的、社会的な問題についてを引用。

 最終更新 2016年9月19日 (月) 06:12 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 

孤立

ギフテッドはOE(前述)に起因する少し変わった行動をとる、同世代の子供達と精神年齢や興味が異なり話が合わないといった理由で、気の合う友達がみつからなかったり、他の子供から疎外されることもある。外界からの刺激を嫌うためや、人生をより真摯に受け止めるがゆえに内向性を持ち、頻繁に内省するために、ギフテッド自身が一人でいることを選ぶ場合もある。

 

OEに起因する「少し変わった行動」 と言われても…(´・ω・`)

本人は絶対「奇をてらおう」とかしてないと思います。 

て言うか、変わった行動とも思ってないと思いますw

むしろ周りがそういうことにビックリしたりすると、

ビックリされたことにビックリしますw 

「え?そうなの?変なの?」です。

周りは実はびっくりしているのだけれど、大人の礼儀的に指摘しない場合、

自分の振る舞いが「少し変わって」いるなんて気づきもせずにいたりします。

 

「精神年齢や興味が異なり話が合わないといった理由で」

これはもう…子供時代だけではなく、ずっとです。 

そして多分、多くの場合、話が合わないのは相手ではなく自分が「オカシイ」

と感じて自分を責める傾向が強いかもしれません。 

 

私自身は、特に青年期に興味が合わず、話が合わずということについて

「何なのコイツらほんとにバカじゃね?」と思うことも多かったです。

このことは前にも書きましたが、会社のお昼休み、同僚の話す内容が

あまりに…昨夜のドラマの話を延々…ってのに、耐えられなかったです。

 

同僚たちがバカだったというよりは、その頃の私に問題がありました。

自分自身の抱える強い劣等感を受け入れられず、自分の弱みを一切認めず

「デキるパーフェクトなスバラシイワタクシ」鎧で、

精神的に武装することで自分を保っていました。 

立ち位置は常に壇上最上段w

当時まだその言葉は無かったけれど、今で言う「上から目線」思考。

ホント、厄介な人物でした。 

 

「コイツらバカじゃね」と思いつつ、実は自分が「オカシイ」んじゃないだろうか、

という深層の不安に常に脅かされていました。

それを認めてしまえばすべてが崩壊しかねないので、それこそもう、

必死で目を逸らしていました。

批判されたり、ミスを認めることが怖くて怖くて。

ちょっとでも何か指摘されるとものすごい勢いで反撃に出ました。

一言で言えば「めんどくせぇ」人物です。 そりゃ疎外もされますわw 

 

 

特にギフテッド仲間の社会的ネットワークを持たない者にとって、孤立は一番の問題である。他人に好かれ、認められようと、ギフテッドの子供はしばしば自分の能力を隠そうとする。低達成児となったり、家族や信頼できる人といる時に使う高尚な言葉とは異なり、同級生といる時は簡単な言葉を使うようにするといった、本当の自分とは異なる姿を演じる[19]。これはギフテッドの女性に際立って見られる傾向である。

 

(^o^) 薬指長いです~w

何それ?とお思いかもしれませんが、胎児時代に母親の子宮内で

「アンドロゲン・シャワー」を浴びることで「脳がXYに対応する成長傾向」へ

舵を切るということが、現在、パラダイムとなっているようですが、

その場合(アンドロゲン・シャワーを浴びた場合)薬指が(人差し指に比べて)

長くなる現象が発現する、とも言われています。 要は男性(XY)っぽい脳。

そうは言ってもおしゃべりは好きだし地図読めないしw

あくまで「っぽい」程度なんでしょうね。 半端やなぁ(T_T)

 

私はどうも女性らしい考え方はあまり得意ではないのですが、そのお陰で?

「自分の能力を隠そうとする」ということはほとんどしませんでした。

そのために、当時はまだまだ根強かった男尊女卑的偏見で「生意気」

「女のくせに」「出しゃばり」「怖い」「嫁にいけない」などなどw

まぁ言われた言われたw 

こういうことを言うのは、大方私より「出来ない」連中でしたから、

たいして気にもならなかったけれど。 

でもダメージを受けないわけではありませんでした。 

もし私のOE傾向がもっと強かったらキツかったかも。

  

一般社会において人は「ふつう」でなければならないという多大な心理的負担がある。ギフテッドやタレンテッドの人間は、変わり者という烙印を押されたり[20]いじめの対象になったりし、自己嫌悪や自己卑下する可能性もある。この孤立問題を解決するために、ギフテッド教育の専門家は共通した興味や能力に基づいたギフテッド達でグループを作ることを薦めている。グループに参加する時期が早いほど、孤立を避けられる[21]

 

そうですね。 「普通」でありたい、と思っていました。

ずっとずっと、自分は外れ者と感じて生きていましたから。

「ワタシハチャントシテナイ、ダメナコ」という気持ちが常にあって。

自己嫌悪や自己卑下は、それが当たり前でノーマルと思っているので

特にわざわざそうしているという自覚すらなかったです。 条件反射でした。

 

それでも歳を重ねるにつれ、社会の中で出会った人から学ぶ機会はあって

少しずつ…本当に少しずつではあっても、そういう考えから脱却していけました。

 

私にとって幸運だったのは、営業職に就いたことだと思います。 

時には販売の現場に立って、お客様に応対をすることもありました。

様々な人と短時間であっても会話し、応対し、学ばせていただくことが

とても多かったと今は感じています。

 

幾つかはまさに「衝撃をもって」w 学んだこともあります。 

 

接客の中ではお客様を「褒める」ことは基本のキの字! もちろん単に

「お美しい!」なんて、いかにもお世辞な褒め方は論外なわけでw

それなりにテクニックが必要なわけですが…今でも忘れられないのは

お客様のアクセサリーをお褒めしたときに、本当にごく自然に、でも

ほんのちょっとはにかみながら「ありがとう!^^」とお礼を言われた

ことがありました。 

 

ものすごい衝撃でした。 

だってそれまで「誰かに褒められたら全力で卑下して謙遜せねばならない!」

さもなければ大変な失礼に当たる…と思ってましたからw

 

こんなに素直に「ありがとう…(^○^)」って言っていいんだ…!と。

そしてそういう対応をされることは、こんなに嬉しい気持ちになるんだと。

「心からそう思っている気持ちを素直に表現すれば、伝わる」ということを、

その時初めてちゃんと受け止められたのだと思います。

 

それまで、他の誰かの話を「くだらない」「面白くない」「とっくに知ってる」

そう思いながら「へぇ!そうなんだ!すごいね!」と対応することに慣れて、

そして、他の誰かにすごいね!とかって褒められたり感心されたりしたことを

「そんなことも知らないのか」「こんなことも分からないでいたのか」と

うんざりする気分をおくびにも出さず「いやいや、偶然TVでやってたの見た」

というように、「自分は全然スゴクないです」と、演じ続けてきたわけで。

 

でもそういう「演技」は、多分カンの鋭い子なら、嗅ぎ分けると思う。

会ったのが一度や二度なら別だけど、学校や職場で長期間一緒となれば。

自分に心を開いてくれずに、上っ面の優等生的対応しかしない相手には

だれも本当の意味の好感は持てないだろうし、それが「いじめ」につながる

こともあると思う。 いわゆる「鼻持ちならない」ヤツ、ですね。

 

私は幸い、深刻ないじめに遭ったりはしなかったけれど、ほぼ孤立、という

状態が多かった。 ぽつん、ではないけれど、無条件に群れている集団に属す

ということは無くて。 まぁ、そのほうが自分もラクではあったのですが。 

 

「共通した興味や能力に基づいたギフテッド達でグループ」

…あったらなぁw ずいぶん楽だったろうなぁ。

でも、今までの亀歩きみたいにノロノロと学んできたことが悪いとは決して

思ってはいません。 自分自身の内面の成長度合いが満ちないと、まったく同じ

メッセージを受け取っても、それをどうとらえるかは大きく変わってきますから。

 

 

欧米にはギフテッド教育を施す私立校がある。アメリカ合衆国の場合、公立や進学校を含めた他の私立からギフテッド専門の私立校へ転校する子供も多い。専門私立校は公立のギフテッド・プログラムとは異なる選考基準を設けるところもある。卒業生がアイビー・リーグなどの名門大学に進む学校も多いが、ギフテッド専門校は進学校ではなく、あくまでもギフテッドである生徒のニーズにきめ細かく応えることができる学校である。そこでは、ギフテッドの子供が、本来の自分のままでいながらにその才能を最大限に咲かせられることを最優先にしている。ギフテッド専門校に通ってようやく話が通じる仲良しの友達ができた、「普通の人」を演じる必要がなくなった、というような広義の意味でのクオリティ・オブ・ライフ(人生の質)の向上に力を入れている。

 

 こういう環境が本当にうらやましい。

まぁね、「私立校」ってことは、それなりに経済力がないと行けないと

いうことなのかな、それはそれでちょっとなぁ…とも思うけど、

少なくとも教育現場にはそういう認識がしっかりあるということだもの。

 

自分自身を振り返っても、ずいぶん「こじらせて」いた部分はあって。

それはやはり、疎外感、孤立感、自己嫌悪、などなどのネガティブな

感情が原因として大きいと思います。

 

お前は「チャントシテナイ、ダメナコ」じゃないんだよ!…って

誰かに言ってもらえていたら、

「仲間はいるんだよ」って…言ってもらえてたら。

 

私みたいにうっかり半世紀、こじらせタイプでうつうつと日々を過ごさずに

済むんなら、いいじゃんw

社会にとって10年後、20年後に大きな財産になる可能性高いと思うんだけど。

教育現場での認識度合いを急ぎ向上させて欲しい! 切に願います!!!

 

 

 

私はギフテッドです。

そして2Eと言うタイプで「算数障害」を抱えています。

 

Wikipediaの「ギフテッド」項目を目にしたことをきっかけに

自分がギフテッドであると認識しました。

Wikipediaの「ギフテッド」の項目に書かれていることが全て

絶対的に正しい…わけではない…ということはきちんと踏まえつつ

その内容について、個々に自分はどうであったかをこのところ何週かで

書き記しています。

 

今回は「孤立」について。

実際の生活の中での対人的な「孤立」だけではなく、

本人の内面、精神的な孤立は、一見外からは分からないだけに

ギフテッドの心に大きな負荷をかけかねない問題だと思います。

 

OEの度合いなどが個人でそれぞれに異なるので、単純には言えませんが

私はやはり、人とのコミニュケーションのなかで学び、自分の認識を

広げていくことが、その負荷を軽くするには大切な気がしています。

 

ですが、まずはやはり社会的に、特に教育現場で「ギフテッド」についての

認知がもっと広がっていくことを切に願っています。

 

そして、敢えて書きますが「ギフテッド」は

「天才」「優秀」「あふれる才能」といった、良いことだけではありません。

多くの場合、精神的な部分で人よりもずっと傷を負いやすく、

その傷のダメージは長く尾を引きます。 

 

それをのり越えていく確固としたマニュアルは存在せず、壁にぶつかり

痣をつくり、時には爪を剥がし、泣くことすらも出来ずによろめき歩く、

そんな思いをしている場合が多々あると思います。

本人たちにとって、「ギフテッド」は褒め言葉などではなく、

自分自身への困惑から解放してくれるかもしれない薬…

傷薬、あるいは鎮痛剤程度のものなのかもしれません。

色々「問題」はあるのだけれど。 

なんなんだと思ってたらギフテッドでした

何でこのブログを始めたか…最初の記事は、こちら 

 

Wikipediaの「ギフテッド」の記述内容をお借りして

私の場合はこんなんでした…というのをぽつりぽつりと書いております。

ちょこちょこと進み、今回はギフテッドの抱えがちな問題についてです。 

 

 

「ギフテッド」についてWikipediaより精神的、社会的な問題についてを引用。

 最終更新 2016年9月19日 (月) 06:12 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。

精神的、社会的な問題

OE(過度激動)に起因する問題

ドンブロフスキは、強いOEを持つ人間は最高にハイな気分とどん底に沈み込む気分両方を味わう可能性があり、決して楽な人生ではないことを表して、OEを「悲劇的なギフト(天からの贈り物)」と呼んだ。

 OEが強い場合、周囲のあらゆる刺激に過剰に反応してしまい、所属する集団から浮いてしまうことがある。例えば、感情の起伏が激しいことから気分屋、知覚が鋭く些細なことで不快になってしまうことから神経質、といったレッテルを貼られる(ラベリング)。また反応が表面化しない場合でも、普通であるべき行為が心から自然にできない、相手の感情・欲求・反応などを考えすぎるあまり行動に一貫性がなくなる、などの対人距離、反社会的反省に常に駆られ、状況を満足に楽しめないケースも多い。逆に、感情や五感への刺激を避けるために敢えて集団から離れていると、今度は人付き合いが悪いと非難される。それらの状況下で感じるあらゆる気分的うつ(慢性のうつ病とは異なる)や自己嫌悪といった否定的な感情も、OEゆえに必要以上に増幅され強く感じてしまうため、逃げ場を失う危険を内包する。

 

これは個人差が大きいし、状況に左右されることも多いと思います。

時代性もあるかなぁ。

「最高にハイ」も、一体どこが最高点なのか、どん底が一体どこが底なのかw

その渦中にいる時より後になってから分かることのほうが多そうな…

私のことで言えば、「最高にハイ」…う~む、「ハイ」ってのがなぁ…

「ひゃっはーーーーっっっ\(^o^)/ !!!」 と、我を忘れるほどの

…ってことはあんまりなかったw

どん底は、ホントに沈み込みそうになるほどの絶望感ってのは何度か…ありました。

 

 10代の頃は「気分屋」「神経質」と言われることも多かったですね。

相手に合わせようとするあまり、自分の気持ちを後回しにしすぎて、でも

結局は疲れちゃって上手く人間関係を構築できないことも多かったです。

ぽつんという状態にはそんなにならなかったけど、分かり合える友人はごく…

ごく少数でした。 

あからさまにはしませんでしたが、陰鬱な気分が普通な状態でした。

「何で私はこうなのかなぁ…(..)」って感じをいつも持ってました。

でもそれが他の人よりも強いとかまでは思ってなかったです。

みんなこんなもんだろうと思ってたんです。

 

逃げ場を失う…かぁ…。

どこにも逃げ場はない → どこに逃げたって結局一緒

…と考えたのが結果として良かったんでしょうか。

そうじゃなければ、ちょっと生きていくのが辛すぎたかもしれませんね。

 

 

気分的うつ

ギフテッドと慢性うつ病自殺との関連性は、科学的には未だ証明されていない。レイスとレンズリの研究では次のように述べられている。「著述や視覚芸術に優れた独創的なギフテッドである青少年を除いては、ギフテッドの人間も一般人もうつ病に関する違いはない。ギフテッドは知覚能力が発達しており、他人よりも敏感で発達社会的に孤立し、発達状態にもむらがあるため社会的、精神的な問題にぶつかる。しかしながら、彼らのもつ高い問題解決能力、ソーシャル・スキル、倫理判断、学校外の事物への関心、達成感といったものが助けとなっていると思われる」[16] また自殺率についても、ギフテッドとの関連性はいまだ証明されていない[17]

しかし、ギフテッドの人間が気分的にうつ状態に陥ることが多いことは、過去から広く認知されている。死の終局、個人個人の根本的な存在、人生の意味や意味の欠如といった抽象的な心配ごとが引き金となり、他人より不安を感じやすいという性質もうつ状態に拍車をかけている[18]

 

確かに気分的にうつ状態に陥ることは多いと思います。

これは本当にうつ病と診断されてつらい思いをしてらっしゃる方から見れば

ちょっと落ち込んだだけで何言ってんの、そんなもんじゃないのに!と

お叱り受けるかもしれないですが…そうですね、「気分的にうつ」っていう

言い方がちょっとなぁ。 「メランコリック」と言った感じのほうが近そう。

他の人にすれば「何をそんなに」というようなことで、ものすごく気分が落ち込む

ことがあります。

「死の終局、個人個人の根本的な存在、人生の意味や意味の欠如といった抽象的な心配ごとが引き金となり、他人より不安を感じやすい」

あ~これ、あるあるですwww

とくにこの「人生の意味」とか「意味の欠如」とか。 

まるでギリシャ時代の哲学者に憑依されたがごとくwww

 

時折り思い出すのですが、私とほぼ同年代の岡真史(おか まさふみ)…君。

彼は12歳で自ら命を絶つのですが、それが1975年のことでした。

当時は10代の「子供」が自殺するなどとは社会通念上まったく考えられて

いない時代で、その後ご両親によりノートに書き記されていた彼の詩が

「ぼくは12歳」として発表されました。

 

「何故だ。 どうしてわずか12歳の子供が自殺などするというのだ!?」

という世の中の「分からん」大人たちのあれこれ言う空虚な言葉を見ながら

「歳関係ない。もしかしたら私だったかもしれない。」と、口には出さずに

ずっと思っていた出来事でした。 私はおそらく彼はギフテッドだったろうと

考えていますし、そう考えると彼がその年齢で自死(ご両親は自殺ではなく

この言葉を使っています:ご両親のお気持ちは理解は出来るのですが、当時

まだその言葉は社会的には認知されておらず、ほとんどの場合自殺という表現

でありました)を選んだのは…彼にとっては「拍車がかかった」末の、

「逃げ場を失った」結果だったのかもしれない…ですね。

 

 

 さて。

 この後「孤立」という項目に入っていくのですが、

あまりにエピソード記憶があふれてしまい、無駄に長くなっちゃって

収拾がつかないので来週まで練り直そうと思います^^;

孤独感は…ホントに長いこと、とてもつらいことだったので。

・・・つい、とめどなくなっちゃうのよねぇ(´・ω・`)

ではまた。

 

 

私はギフテッドです。

そして2Eと言うタイプで「算数障害」を抱えています。

 

Wikipediaの「ギフテッド」項目を目にしたことをきっかけに

自分がギフテッドであると認識しました。

Wikipediaの「ギフテッド」の項目に書かれていることが全て

絶対的に正しい…わけではない…ということはきちんと踏まえつつ

その内容について、個々に自分はどうであったかをこのところ何週かで

書き記しています。

自分自身でも認識しきれていなかった特性が分かったこともあり、

結構自己把握にはいいかも…と思ったりしています。

昨日、きわめびとって番組で。

なんなんだと思ってたらギフテッドでした 閑・話・休・題 ギフテッドからちょっと離れておしゃべり。

今週もカテゴリー2本立て。「ギフテッド」ではないんだけれど。

 

きわめびと、土曜日の朝にやってるのですね。

お悩みをお持ちの方に、その道のプロが解決法を指南する、

とのことで。

 

昨日は小学生の男の子のお母さんが

「子供がちゃんと宿題をやろうとしない」

「字が汚すぎて先生から『名前が読めないレベル』と言われる」

「注意しても叱っても言うことをきかない」

…とお悩みのようでした。

 

で。

最近よく聞く「コーチング」というスキルをお持ちの方のアドバイス

まぁ、子供の話をちゃんと聴こう、否定的なことではなく肯定的な言葉で、

っていうような行動をとるようにお母さんが動いてみたら、

何だか良い方向に行きそう…(^o^) よかったなぁ♪

 

うん、それは良かったと思うよ、とっても良かったよね。

でも私がすごく気になったのは

「(書いた)名前が読めないくらいの字の汚さ」と、

「鏡面文字を書いている」ということ。

けれど、実はお母さんの行動をしっかり観察して把握していて、

それを具体的にきちんと言葉で言い表せている。 賢い子だなぁ。

 

ディスレクシアっぽく感じるんだけど? と私は思ったわけです。

あの番組ご覧になっていた中で、私と同じようなことを

感じた方もいらっしゃるんじゃないだろうか。

 

  

ディスレクシア英語: Dyslexiaディスレキシアとも)は、学習障害の一種で、

知的能力及び一般的な理解能力などに特に異常がないにもかかわらず、

文字の読み書き学習に著しい困難を抱える障害である。

難読症識字障害(特異的)読字障害読み書き障害とも訳される。

1884年ドイツの眼科医ルドルフ・ベルリンドイツ語版によって報告され命名された。

顕著な例では数字の「7」と「seven」を同一のものとして理解が出来なかったり、

文字がひっくり返って記憶されたりして正確に覚えられない、など様々な例がある。

 

ディスレクシア学習障害の中で最も多い障害であり、

世界すべての地域で確認され、人口の3-7%ほどに見られるが、

それがハンディとなっているのは20%程度である。

男性のほうが診断率が高いが、男女で等しく確認されると言われている。

 Wikipedia ディスレクシアの項目から一部引用

最終更新 2017年2月5日 (日) 11:04 (日時は個人設定で未設定ならばUTC

はい、あくまでWikipedia の記述ですからね、これが全て正しいとは限らないって認識は忘れずに。

 

 

 

私は医師でも研究者でもないので、「ですよ。」と断言などできない。

そのことはよく分かっているし、何より人様のお子さんに、

なんちゃら「障害」という言い方を簡単には決してするべきではない、

特に今の日本に於いては。 …とも思っています。

どんなに「良かれ」と思っても、軽く、単純な言葉ではないですよね。

言われた側にすれば、まさに言葉の暴力になりうるほどのものだと。

 

番組を見ていた私がものすごくショックだったのは、

学校の教師からすらも「もしかしてディスレクシア…」

というような懸念の表意が全くなされていないらしい様子。

 

いやもちろん、

もしかしたら、実は既に親と教師の間では話し合われているかもしれない。

番組として、趣旨から外れるので放送内容から外した可能性はある。

なので、こういう内容をUPすること自体迷ったのだけれども…

 

もし、もしも、

「(書いた)名前すら読めないレベルの汚い文字」「鏡面文字を書く」

というのがディスレクシアの特徴として頻繁にみられるもの…

という認識自体がまったくゼロで、思いつきすらしない周囲の大人たち。

 

努力すれば「ちゃんとできるようになるはず」

(デキナイノハオマエガチャントシテナイカラダ)

という考え方以外持ち合わせていない周囲の大人たち。

 

そういう大人たちしかいない状況の中で、

もしも…もしも…あの子にディスレクシアの傾向があり

そういうことを全く考慮されずに暮らして、通学して、

勉強しているなら…ものすごく辛くないかい?

 

あのお子さんがディスレクシアだと言い張るつもりは毛頭ないです。

 

ただ、ディスレクシアの特徴に当てはまることがあるので

詳しい検査を受けてみませんか、もしそうであれば、

別のアプローチをすることで今までよりずっとスムーズに

能力を引き出して伸ばしていくことが容易になる可能性がある。

 

もちろん単に成長の過程として、文字認識が追い付かないとか

学年が進めば自然にクリアできることなのかもしれないけれど、

検査してみて自分自身の学習傾向を知れるならそれは有意義と思う。

 

というような持っていき方は、現場で普通になされてはいない?

と、心配になったのです。

発達障害者支援法が、平成17年に施行されてから10年以上すぎ

昨年、 発達障害者を取り巻く状況の変化を受けて改正が行われました。

 

10年以上!

 

 

算数障害で全く数学ができないことを

「お前が悪い」「怠惰だ」「我儘だ」「努力しないロクでなし」

「どうなっても知らんぞ」…と、散々な言われようをされて、

私自身はどっちかというと反抗的で強情なタイプだったから

泣き崩れるようなことはしなかったけれど…辛くなかったわけじゃない。

そして結局は大人たちに言われたそのままに、自分自身を責めたw

責め続けて、自分は存在価値のない人間だと劣等感に苛まれてきました。

 

誰か…一人でも、

「あ~、それね、学習障害。 アナタが悪いわけじゃないよ^^」

って言ってくれる大人が、もし学生時代にいたなら・・・(T_T)

今はもう、ふっとため息一つついて笑えるくらいになってはいるけど。

 

  

まさか、教育の現場ではいまだに私の学生時代のままの認識が

罷り通ってる…とは思いたくない。 

あれから最長で40数年、

もうあんなつらい思いする子供、一人もいて欲しくない。

 

繰り返していうけれど、あの子がそうかどうかではなく、

もしかしたら…と。

 特徴の幾つかが当てはまるけれど、もしかしたら?…という認識を持って、

どの子供にも注意深くまなざしを向けて欲しい、ということ。

それがディスレクシアでも、それ以外の学習障害でも、

実は本人は「何故できないのかわからない」と

全く認識できていない場合が多いと思うのです。

 私がうっかり半世紀生きてきて、まったく気付かずにいたように。

 

Wikipediaを鵜呑みにするわけではないけれど、

「人口の3~7%に見られる」ってことは、

30何人のクラスには1人や2人いて当たり前ってことですよね。

 

今回、自分のこともじっくり振り返ってみると、あ、

「D」のカーブが右側だったか左側だったかとか

アルファベットの「E」をカタカナの「ヨ」に書きそうになったりとか

「頭」の「豆」と「頁」のどっちがヘンでどっちがツクリだったかとか

「N」と「И」間違えそうになるとか

読みは問題ないのに、手書きだと書き始める前にほんの一瞬、混乱する。 

手書きに限ってのことで、幾つかの決まった文字だけなのだけれど。

「著しい困難」ではないけれど、ディスレクシア傾向が私にもあるのかな?

 

 

何だか今日は文章にまとまりないなぁと自分で思うのですが

私には小学校とかの現状が全くわからないので

もしかしたら、実はもうしっかり体制は取られているのに

私がそれを知らないがために、的外れなことを言ってるかも…と

引っかかりながら書いているので、そのせいです(´・ω・`)

 

的外れなことでしたら、本当に申し訳ないです。

でも、そうなら、ホントのところは結構ウレシイ。

…的外れだったら、いいなぁ。 と、ホントに思う。