mouratta’s blog

うっかり半世紀生きてきて、自分がギフテッドと やっと気づいた私。

8月、風化させてはならじというけれど。

 

8月も半ばを過ぎました。 

終戦記念日とされている15日はずいぶんと涼しく「暑く、抜けるような青空」と表現されるあの日とはちがっていたのだと思います。 コロナ禍のなかで従来のような戦争関連のニュースや特集も薄く、あと10年もすれば戦争の記憶をたしかに持つ人々は本当にいなくなってしまうのだということを薄ら寒い思いで感じています。

 

mouratta.hatenablog.jp

 

2年前に書いた時、戦争そのものよりも「何故戦争に向かってしまったのか」を考察する方向性が強くなってきた気がしていましたが、今年は本当にそれを全面に出した特集が放送されました。

 

「開戦 太平洋戦争〜日中米英 知られざる攻防〜」

https://plus.nhk.jp/watch/st/g1_2021081510843?playlist_id=d5c1a7d9-d13c-47a3-b620-e36e8fc58953

 

私にとってはかなりキツイ番組で、何度かリモコンを手に取ってオフにしかけました。 でもどうしても視なければ。 私の父には従軍経験があるのだ。

 

何がキツイって「戦争を回避することは可能だった。 その機会は何度もあった。」ということを資料を基に説かれていくこと。 では何故!?なぜ回避できずにあの戦争に向かってしまったのか?

馬鹿なの?死ぬの?という煽り言葉がむかし2chでよく使われていたけれど、まさにそれじゃん。 何百万人も死なされて「馬鹿」とかいうレベルの話じゃないでしょう。 何なの。 何でこんなことになったわけ。 どうしてもわからない。

 

あの時代の日本政治と外交が、そこまで低レベルだったとは思えない。

こういう言い方をすると無条件に日本サイコー!的な発言に思われるかもしれないが、そうではなく、江戸から明治に移行するあの混乱期に列強の植民地化を退け、近代化を推し進め、産炭地でエネルギー開拓し、外貨獲得に有効な産業を展開し。 高等教育機関を設置、経済システムを作り上げ、インフラ整備も。

 

もちろん輝かしい話ばかりではなく、負の部分は呆れるほどあったとは思うが、よく出来たもんだなと思う。 特に北海道で育つと「こんな場所にこんな道路が(鉄路が・集落跡が)あるって、どんだけ開拓地獄だったか…」としみじみ感じるのです。 

人気の富良野や美瑛の広大な丘の畑だって、明治の開拓当初からあんなだったわけはない。 森を切り拓き、木の根を掘り起こし、岩を砕き、石を除け、耐寒種を模索し。

なのでああいう「畑」を見て「わ~!自然ってすごーい!」とかいう連中に出会うと「開拓時から連綿とどれほどのご苦労を農家の方々が積み重ねての今なのかを・・・」と小一時間説教しそうな衝動にかられます、やらんけど。 畑は自然じゃねぇよ! でもまぁ平気で「自然のめぐみ」とか言っちゃう販売戦略にも責任はありますね。

開拓については甘言で集団移住をつのってほぼ放置した棄民政策的との評論もあるけれど、少なくとも海外から専門家を招聘して産炭、酪農、農業などの近代化を図るとか、それなりに…いやもうこっちに話を持ってくのはいいわ、今してるのはそういう話じゃないので。

 

何でそうなった?に、ある程度納得のいく答えのヒントを翌日Twitterで見かけました。 

それをものすごく単純化して言うと「いろいろラッキーなこともあって、たまたま当時のめっちゃデカい相手に無謀にやらかした戦争で、どういうわけか勝っちゃってカン違いしちゃったんだろうなー。 世界に冠たる一等国!とか皇軍無敵!とか、軍部がやることに間違いなし!軍正しい!軍政サイコー!な方向に雪崩れ込んじゃったんだろうなー。」

 

・・・その発想無かったわ。 

そもそも日清戦争日露戦争も、詳細なんて何も知らないってことに今さら気付いた。 日露戦争の「バルチック艦隊」とか「203高地」とか単語的には知っていても、その詳細はしらない。 さださん主題歌の映画あったよねとかくらいしか。 

日清戦争なんてもっと知らない。 巨額の賠償金分捕って、それで仁徳天皇陵(←いま名称違いますが当時の呼称で)に植樹した(その前は石板的なもので覆われていた)と、堺に行ったとき解説ボランティアのおじちゃまに聞いたけど、へー日清戦争の賠償金かぁと思ったくらいで。

 

ま、あくまでwikiなんで疑問持ちつつ資料に当たるという前提でどうぞ。

ja.wikipedia.org

ja.wikipedia.org

 

 昨日今日のアフガニスタンの事態を見ても、平和な日常がいかに脆いものなのか、それを維持するのにどれほどの困難があり、知力も経済力も政治力も必要とされるかを思い知らされる。

 

かつての戦争に学び、同じ轍を踏まないために記憶を風化させてはならない。 私も確かにそう思っていたけれど、ではそれは「いつの」戦争なのか。 

日清戦争のことも日露戦争のことも断片のさらに欠片しか知らない自分。 

それは間違いなく「風化」の結果。

 

日本に、あるいは世界にいま、その戦争の詳細をきちんと把握している人物はいったいいるのか。 本当にいるならば、いったいどうやってその記憶を風化させることなく維持しているのか。 その手法とシステムは。 そもそもどの視点から見ての歴史なのか。 肯定するのか、否定するのか。

 

私は先の大戦を完全に否定することはできません。 そういう立場に立っているのです。 おそらくそういう人はかなりの数いる。 

要は「あの戦争が無かったら、今、ここに私は存在すらしていない。 父と母が出会う局面はどう考えてもなかった。 戦争でさまざまなことが激変した結果、自分はいまここにいる。」という現実をどう考えるのか。

 

それは逆に言えば、いまここに居たはずの存在が「あらかじめ失われてもいる」ということ。 そのシャッフルは人知を超えているけれど、それでも戦争は「止めることができる」「回避することができる」ということを忘れずにいなければ。

 

 

私の母が鬼籍に入った時、手続きの中で生まれてから死亡までの戸籍謄本を揃える必要があったので、外務省に請求する旨の手紙を送りました。

外務省? あ、海外の方なの? いえ違います。 

外務省に「ある戸籍の一群」が保管されているのです。

 

それは終戦前後、樺太から日本に引き上げる混乱の中で、戸籍を含む公的書類のほとんどが置き去りにされ失われたわけですが、本当にごく一部の戸籍簿が持ち帰られました。 それがいま、外務省に保管されています。

 

母は子供の頃、父親(←私の祖父)の仕事の関係で樺太に渡り、祖父は一家の戸籍をそちらに移していました。 なのでその間の戸籍が失われている。

それを証明するために(どう考えても証明になりようはないと思うのですが)「現在外務省に保管されている樺太から持ち帰られた戸籍の中には請求された戸籍は見当たりません。 戦乱で失われたと推察されます。」という一文が返送され、それをもって欠落OKとされるわけ。 

ちなみにこれが北方領土であれば、それは日本固有の領土なので、担当は「内務省」だそうです。 なんか薄く冷たい笑いが浮かぶのは何故だろう。

f:id:mouratta:20210817151118j:plain


 当時、戦後70年前後です。 70年。

それだけ経ってなお、戦争の影響は残り続ける。 コスパ最悪。

人類の英知という言葉があるのなら、何が何でも回避すべきものでしょう。 シャッフルされるカードに私はなりたくはないし、誰にもなってほしくない。 シャッフルの結果、めっちゃツイてた!ラッキー!なんて状況になる人間は、基本いない。

99.9999%、死ぬか、死んだほうがましと慟哭する状況にしかならない。

 

風化は止められない。 だとすれば、分析を。教育を。

戦争は、勇猛でもロマンでも冒険でもない、単なる愚行でしかないのだと。